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3・11東日本大震災から10年!仙台大学で追悼式典 / 当時の記録と記憶を語り継ぐ

更新日:2021/03/11

1 仙台大学追悼の式
 3月11日午後2時46分,地域のサイレンに合わせ1分間黙とうを行い,朴澤理事長からご挨拶いただき、慰霊碑に教職員や多くの学生たちが線香を手向けた。

【大学中庭慰霊碑前】

【朴澤泰治理事長あいさつ】

【本日の仙台大学の正門からの風景:輝かしい懸垂幕の前に半旗が風にそよいでいた】

 

 10年前,東日本大震災により,仙台大学の学生3名にも人的被害が及んでいた。慰霊碑前には3名の学生の遺影が掲げられ,参加した教職員・学生たちは改めて若い尊い命が失われた無念さに触れた。
 全国の同窓会支部会員及び同窓生の皆様方にも,東日本大震災により,大きな悲しみを抱えている方々がおられると思われますが,同窓会事務局の私自身もその一人となっている。

【仙台市の震災遺構となった仙台市立荒浜小学校が今日(3.11)の朝日を浴びていた:車窓から】

【今日(3.11)の仙台市深沼海岸周辺:車窓から】

2 東日本大震災の記憶と記録(当時の記録の一部抜粋から)
 当日は仙台市若林区の中学校(仙台市唯一の海水浴場「深沼海水浴場」を抱える,海岸から約3.5kmの場所にある)に赴任して初めての卒業式を午前中に終えて,校長室で一息ついた矢先だった。午後2時46分、テレビから緊急地震速報の音声が流れると同時に激しい揺れと地鳴りが始まった。校長室のスチール書棚が倒れ,机・椅子等は倒れながら揺れと共に散乱した。歴代の校長・PTA会長の写真が次々に落ちて,床は一瞬にして割れたガラスでいっぱいになり校舎外への避難経路は断たれた。その時は,何かとんでもないことが起こっているような不安を感じた。校長室が1階であったので,咄嗟に窓から外に飛び出して,校庭で練習中のサッカー部の生徒を安全確保のため校庭中央に集合させた。立っていられる状況になかった。揺れは続き,校庭側に隣接する家屋の屋根瓦が滝のように流れ落ちた。瓦の割れる凄まじい音と天高く舞い上がった土煙は,私たちを呑み込むほどの勢いだった。この世の光景ではなかった。生徒の悲鳴,校舎のきしむ音,防球ネットの支柱とワイヤーのぶつかる金属音,そして無数の校庭の地割れと地盤の沈下。校庭に駐車していた車のタイヤが最大半分以上も沈下した。校舎周辺のブロックは波打ち,電柱は全て倒れんばかりに傾いた。校舎の倒壊の不安を感じるほどだった。誰もがもうだめだと思った。激しい揺れは容赦なく続いた。(本震の地震動は東日本全域で6分以上・東日本大震災の揺れの継続時間は200秒以上と記録が残っている)今でも体感した身体が鮮明に覚えている。この状況が後に新聞発表された「震度7」(マグニチュード9.0)である。校地内に設置されている震度計の数値だった。
 地獄のような揺れが止まり,学校周辺の動きは,慌ただしく,結集できるだけの警察車両・消防車両・救急車両がサイレンを最高音に鳴らしながら,続々と海岸へ向かっていた。映画のワンシーンかと錯覚するほどだった。地域の防災サイレンや鐘は途切れることなく鳴り響いていた。上空からも!低空飛行のヘリコプターから「大津波警報による避難指示」があり,とんでもない状況になった!と誰もが直感した。
 東日本大震災発生から14分。午後3時,避難所開設の判断は速かった。災害用備蓄倉庫から生徒と共に食料や物資を全て出し,仮設トイレも組み立て設置した。大津波警報が解除されるまで,校舎の3階以上に全員避難することとなった。結果,中学校までは津波は到達しなかった。大津波警報解除後,中学校の体育館と武道場を避難所に開放した。避難者は中学校に800人ほど,中学校近くの七郷小学校へ2000人ほど集まった。避難所の運営をしながら,教職員との打合せで,明日からの避難所各所を巡っての生徒の安否確認と校舎の被害状況の確認を指示した。当日は雪が降り寒かった。ライフラインは全て断たれ,少ないローソクの明かりが,私たちの不安なこころを支えてくれた。避難所には,津波に巻き込まれながらも生還した保護者たちの姿もあった。暗い避難所・校長室でやっとラジオから震災被害状況が伝えられた。その内容に教職員と避難者が愕然とした。「仙台荒浜地区で200から300の遺体!」誰しもが耳を疑った。仙台唯一の海水浴場「深沼海岸」を抱える荒浜地区が壊滅状態になった。海岸近くの荒浜小学校は2階まで,大津波にのまれ,校舎3階以上に避難した小学校の児童たちは,あと僅かのところで大津波にのまれ流されていく多くの住民たちの姿,助けを呼ぶ声を目の当たりにすることになった。小学校だけが海に浮かんでいる状況になった。翌日,校舎屋上から全員ヘリコプターで救助された。頭に浮かんだのは,本校生徒の安否と家族の安否だった。家族と繋がらない携帯電話。一瞬繋がった家族からの情報は,「近くまで津波が来ている」。途切れた携帯電話が不安をさらにかきたてる。その日の夜中,大津波で通勤経路が断たれる中,迂回・回り道しながら,3倍もの時間をかけ,着替えを取りに一時帰宅するも,家族はいなかった。明かりの無いその夜の光景は,仙台港近くのガスタンクが赤々と燃え,真っ暗な空を照らし,赤と黒の世界という表現がぴったりな恐ろしさを感じるものだった。明るくなってからの通勤経路13.4kmの間には,車1000台以上が道の脇に瓦礫となって積み重なっていた。
 翌日から,避難所運営と並行して数日かけて生徒の安否確認が始まった。後100人,後50人と祈る思いで生徒名簿に印を付けた。身体が震える程の不安と緊張が続いた時間は,最終的に教職員が泣き崩れ天を仰ぐといった光景に繋がった。今でも一瞬にしてあの時に,時は戻る。仙台市内63の中学校で,本校だけに人的被害「2」という数字が付き,尊い命を失うこととなった。
 誰もがもうだめだと思い,被害状況が伝えられるたび,現実を受け入れられず,心の整理がつかず,答えのない悲しみを覚えた。

【震災時勤務していた中学校の職員室】

【震災後,支援をいただき植樹した希望の梅20本】

 心に傷を負うというが,その傷は消えることがない。消えないということは,そのことを覚えているということだという人がいたが,その通りだと頷くことができる。震災後に被災者の方々が一番心配していたことを思い出した。それは,「忘れ去られること」だった。
 私たちはそれぞれに,「今」とこれからについて,それぞれの震災体験を語り継ぎ,風化させてはならないという崇高な使命を与えられたことを強く自覚しなければならない。